それは送別の宴だった

 

それは送別の宴だった

 

 

 

 平成18年6月25日、辺見裕先生が74年目の思い出のバッグを片手に旅立たれた。

 

 仙台二高への奉職は昭和38年から56年まで。国語科の先生として人気を集めた。

 

 我が22回卒の3年3組の担任、そして川内短期大学の主任教授を務められた後、昨今21世紀枠で春の大会の話題となった一迫商業の教頭としてご転出、利府高校・仙台東高校の校長を歴任されたと記憶する。東高校ご在職の折には宮城県高校野球連盟会長として、青春の熱き戦いを存分に奨励なされた。既に、それから15年の歳月が流れている。

 

 

 先生にお世話になった昭和44年当時の二高では、僕のように成績の悪い生徒は肩身が狭かった。自ら肩身を狭くしていたのかもしれない。逃避行に走った。僕が逃避先に使ったのは、柴田錬三郎の「眠り狂四郎」や司馬遼太郎の一連の時代小説だった。無頼のヒーローに求めたものが、その頃の屈託を物語っていて面白い。

 

 

 今年の正月、22回卒で作っている「ゲタの会」の集まりの折りに、先生の方から藤沢周平の「三屋清左衛門残日録」が面白いとお話しされて来た。まさか、高校時代の逃避行が見透かされていたのではと内心冷やりとしたものだが、今にして思えば、既に覚悟の積み重ねに入っておられたのだ。

 

 

 我が逃避行に携えた時代小説は、今、間違いなく飯の種になっている。そして、先生は第四楽章を時代小説の堪能から始められた。これが、二高で打ちのめされた僕の青春の救いとなってくれるような気がしている。

 

 

受験戦争の日々に、時として先生がして下さる芸術論は実に新鮮だった。

 

「時きぬと 目にはさやかに見えねども 辺見の声にぞ驚かれぬる」とは黒板の落書き。その落書きを簡単には消させなかった。新古今和歌集の本歌取りの講釈から始まり、仕舞いには自ら顔を紅潮させて恋歌を板書する光景が思い出深い。今は懐かしいラブレターの決め文句に転用させて頂いた。そう、著作権法違反である。

 

 

 「凡庸な教師はただ喋る。普通の教師は教えたがる。本当の教師は生徒の心に火を点ける」とは、同窓会々長西澤潤一先生が創立百周年記念行事で引用した、イギリスの吉田松陰研究家の言葉である。倒幕のエネルギーを若き心に注入した松蔭の教育者としての真骨頂を伺わせる。松蔭の時代は歴史がたぎっていた。学生運動盛んなりし僕等の時代は歴史が騒然としていた。青年教師辺見裕が僕等の心を如何にスパークさせようと、どれだけ腐心してくれたことか。今となっては知る術もない。先生が愛した酒を酌み交わしながら、ロマンティストの本性に迫ってみたかった。

 

 

 「不発は許さんぞ。分かりなさい!」そんな声が聞こえてきそうだ。それが第二の人生を歩む僕の心に深く響いて来る。奇しくも、会社に辞表を出したその直後に、先生の訃報は巡ってきたのである。

 

 先生の病名は急性骨髄性白血病。余命まで宣告されていたそうだ。一ヶ月前にはご家族で気仙沼の菩提寺を訪れ、住職と和やかに談笑しながら旅立ちの覚悟を整えられたと聞く。

 

 「Go to heaven」神の非情な命令に、辺見先生は端然と従われた。合掌。

 

平成18630日  斎藤 茂

 

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